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沖縄ゲリラ戦指揮、住民監視 「中野」出身42人 [戦争]

 

沖縄慰霊の日、

 きょう23日は「慰霊の日」。一般住民を巻き込み20万余の貴い命が失われた沖縄戦から65年がたった。糸満市摩文仁の平和祈念公園では午前11時50分から県、県議会主催の「沖縄全戦没者追悼式」が開催され、戦没者のみ霊を慰め、世界の恒久平和を願う沖縄の心を発信する。

全文 http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-163927-storytopic-145.html

 ゲリラ戦、住民監視担う 「中野」出身42人 活動実態明らかに

沖縄戦当時、沖縄本島北部や八重山などの離島に配置されていた陸軍中野学校出身者の活動や組織概要の全体像が22日までに初めて明らかになった。沖縄に配置された同校出身者は42人。山中のゲリラ戦を担う遊撃隊(護郷隊)、住民監視などを行う離島残置諜者、戦況を把握するための情報を送る大本営陸軍部直轄の特殊勤務部隊の3組織に分かれて活動した。名護市教育委員会が出身者の生存者らへの聞き取りや資料収集などで明らかにした。


 中野学校出身者の沖縄戦への関与は断片的に分かっていたが、県内外の関係者の証言によって裏付けられ、初めて体系的に整理された。調査結果は本年度中に名護市史資料編にまとめられる。
 護郷隊は本島北部の14~19歳の少年を1944年10月~45年3月ごろに複数回召集、第1護郷隊(第3遊撃隊)と第2護郷隊(第4遊撃隊)を組織した。西表島でも護郷隊が組織された。隊員は約8百人。山中でゲリラ戦の訓練をした。米軍上陸後に162人が犠牲になった。

 離島残置諜者は偽名を使い、青年学校の教師などとして離島に1人ずつ配置され、住民監視や遊撃戦要員の育成などを担った。大量の食糧を確保し、敗戦後も何年かけても米軍と戦う任務を負っていた。大本営陸軍部直轄特殊勤務部隊は3~4人で一つのグループをつくり、大量の食糧を確保して山中にこもった。1日に3~4回大本営に情報を送っていた。同部隊に動員された県出身者から「3年分の食糧を持って山に入った」などの証言も得た。


 名護市教委文化課市史編さん係の川満彰嘱託員は「中野学校出身者がどんな役割を担い、何をしていたのか。戦場に巻き込まれた元護郷隊の生存者らが抱える疑問に応えるためにも、解明する必要があった」と説明。多くの少年が戦死したことに「日本軍の兵力不足などにより配置換えがあり、地の利を得ない山中でゲリラ戦を強いられて多くの犠牲者が出た」と日本軍の計画性のなさを指摘した。(宮城隆尋)

http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-163932-storytopic-145.html

 

戦争というものは、殺人、殺し合いを正当化するもの。人としてしてはならぬことを主君のため、国家のため、テロ撲滅のためなどと一見まともそうな理屈をつける。しかし、いざ、始まるとひたすら殺すのである。敵、味方、非戦闘員、女、子ども、お年寄り、そしてその戦争=殺し合いに参加しないもの、嫌がるものを非国民、敵性分子、などと非難する。地球のスパイは、自らの感情を捨て、魔に使役されていいように使われている。

人の心の隙間に入り込んだ安住した悪魔たちはここぞとばかりに暴れまくる。人間の心を完全にのっとり、魔が支配する闇の世界の奥底深くに突き落とすのである。

決して決して魔の挑発にはのってはいけない。甘い囁きに少しでも心を動かせば、そこから徐々に入り込まれ、身動きがとれなくなり、転がり落ちる。

常に自分の精神のありよう、心の動きに注意していよう。

そして、余裕があったら、周囲を笑いが自然にこぼれるような和やかな空気をつくって魔をよらせないようにしよう。そうすれば、魔も「な~んだつまんね~の」といってすごすごと引き下がるか、さみしがり屋のちょっとあいきょうのある悪魔だったら、宗旨替えしていたずら好きの妖精に変身するかも。

自らの内に幸福の空間を作れる人は、肉体的に弱くても、何も武器をもっていなくても、最強です。

 

 


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