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日本人はただもくもくと従ってきたわけじゃない。 [日記・エッセイ・コラム]

 

沖縄のコザ暴動はあまり知られてないのではないか?

そういう私も実は最近この本で知った。

沖縄 だれにも書かれたくなかった戦後史

沖縄 だれにも書かれたくなかった戦後史

  • 作者: 佐野 眞一
  • 出版社/メーカー: 集英社インターナショナル
  • 発売日: 2008/09/26
  • メディア: 単行本

 

あと、こちらの記事を紹介。

コザ暴動が教えること

http://blog.goo.ne.jp/harumi-s_2005/e/6fee20ea8ca9128c758e621ad9663e85?fm=rss

空から振りまいたように、万緑の森に無数の白い花が咲いている。
イジュという名のかれんな花がひらくのは、沖縄の人々が「若夏」と呼ぶ今の季節だ。
鳩山由紀夫前首相の辞任表明の日から、菅直人新首相が誕生するまで、「政変」の
きっかけとなった沖縄の各地を歩いた。
さぞ怒りや憤りが充満しているだろう。そう思って訪ねると、人々の反応は意外なものだった。
「鳩山さんはよくやった。彼だけが沖縄の基地問題を、全国化、国際化してくれた。結果的
に米国に押し切られたが、歴史的には、沖縄にプラスだろう」
そう語るのは、基地問題を全国に発信してきた音楽家の海勢頭豊さん(66)だ。
「鳩山さんのお陰で、沖縄は保革を問わず一つにまとまった。ただし40年前のように、差
別への怒りは、種火として県民の心にくすぶっている。今後の菅さんの出方次第だ」
「40年前」とは、海勢頭さん自身が現場で目撃した「コザ暴動」を指している。

「大変だ」。米軍クラブに勤める友人が、血相を変えて飛び込んできた。
海勢頭さんは、当時はまだコザ市と呼ばれた沖縄市の盛り場にライブの店を開いたばかりだ。
1970年12月20日。未明の繁華街を50メートルほど走って大通りに出た。
大勢の群衆が米軍の車両をひっくり返し、火を放っていた。
米憲兵隊は、空中めがけて威嚇発砲したが、これが逆効果となった。
暴徒は投石を繰り返して二手に分かれ、黒いうねりとなって米軍基地に向かった。
早朝まで続いたコザ暴動で、炎上した車は82台。
米兵、住民計88人が負傷し、21人が逮捕された。
「守礼の国」「非武の島」沖縄で、軍政下に起きた唯一の住民暴動である。
前年11月の日米首脳会談で、いよいよ本土復帰が目前に迫ったが、「基地負担の軽減」を
望む県民の声は少しも交渉に反映されなかった。
「復帰」への期待は幻滅に変わる。
ベトナム戦争の泥沼化で、米兵はすさみ、事件や事故も絶えない。
暴動9日前には米軍事法廷が、糸満市での酒酔い運転で主婦を死亡させた米兵に、証拠
不十分で無罪判決を出したばかりだった。
発火点は、ささいな交通事故だった。
当時高校教師をしていた安里嗣則さん(70)は、忘年会の帰りに、米兵の運転する車が、
男性をはねた現場を目撃する。
ケガは軽かったが、群衆の不満が爆発した。
「糸満を許すな」。糾弾の声があがった。
沖縄からの移民が多いサイパンで生まれた安里さんは、米軍の猛攻で住民が岬から次々に
飛び降り、波打ち際を遺体が埋め尽くす場面を見た。
妻の姉も「ひめゆり部隊」で戦死した。
悲惨な戦争の後も、なぜ沖縄だけが、もがき苦しむのか。
安里さんはリンゴ箱の上に立ち、米軍を非難する演説をした。
いったん近くの自宅に引き揚げて数時問眠った安里さんは、上空を旋回するヘリの音で
目覚めた。
大通りに戻ると群衆は、米軍住宅地に近づいていた。
坂の下に目をこらすと、米兵が阻止線を張っている。
前列に立てひざ、後方には立ったまま銃口を向ける米兵が並んでいた。
道路わきには、琉球警察の機動隊も密集している。
「すでに、われわれの意思は示した。これで、終わろう」
安里さんは30分の演説で必死に説得し、約3千人の群衆をとめた。
後日、安里さんは騒乱罪の容疑で逮捕されたが、演説で流血の事態を避けたことがわかり、
不起訴となった。

同じく現場を目撃した元沖縄市職員の今郁義さん(63)は、今春から毎月、「コザ暴動を
検証する会」を開いている。
「先月まで、沖縄ではコザ暴動当時と似た不満が広がっていた。首相の辞任で、空気は
変わった。今では鳩山さんが沖縄の基地を、日本全体の問題として提起したのはよかったと
思う。しかし問題は、新政権がどうするかにかかっている」
沖縄選出の照屋寛徳・社民党国対委員長は、「日米共同声明はいわば国際公約。総理が
辞任したから直ちに一方的に破棄するというわけにはいかないだろう」という。
しかしその一方、新政権に対し、「普天間飛行場の辺野古移設は、沖縄の強い反発、怒り、
抵抗があることを受け、米側との交渉を仕切り直しするべきだ」と訴える。
かつて国民に約した「地元合意」「連立合意」「日米合意」の3点のうち、他の二つを積み
残したままの見切り発車だったからだ。
鳩山前政権は最後まで社民党との連立維持を模索した。
閣議決定の直前にも、移設先に「辺野古」の文字を入れず、「地元の合意を得るべく努力
する」という素案を社民党に示した。
しかし、福島瑞穂大臣を罷免した後の閣議決定には「辺野古」と明記し、地元の「合意」を、
「理解を得るべく」に変えた。
参院選後には、日米が約束した「代替施設の位置と工法」を決める8月末の期限がやって
くる。
合意を盾に強引な手法をとれば、県民の心にくすぶる怒りの種火は、再燃しかねない。
「コザ暴動」のような正面衝突は、二度とあってはならない。
ここは一歩立ち止まり、政府は地元との対話を、最優先にするべき時ではないか。
*2010.6.16朝日新聞
**********************

つい、3~4日前なったと思うが、報道ステーションでやっていた安保条約成立前後の様子。モノクロの画面と服装に時代を感じる。

普天間基地と60安保闘争1

  

 

普天間基地と安保闘争2

 

 

私は、1960年生まれでバブバブ、フギャフギャやっていたので、安保闘争当時の社会の空気感とかはよくわからない。ただ、映画やこのようなニュース映像を見る限りで想像できることは戦争に対して強い拒否感があり、それをストレートに行動に移す土壌があったということはわかる。

それから、50年、もうなにもわからないではすまされない大人になった。

そうして、いろいろと調べたり、考えたりするうちにどうやら、東西の冷戦構造、共産主義と民主主義の対立、2つの世界大戦、朝鮮戦争、ベトナム戦争、フランス革命、ロシア革命、明治維新、そういった近代世界のいろいろな出来事がある勢力によって意図的に引き起こされたものであるということが分かってきた。つまり、意図的に対立構図嵌めこまれて、目くらましをされて的違いな労力を使わされてきた。(それに全く意味がないとは思わない)

今の日本人は暴動など関係のない従属的なおとなしい民族かのような印象が何故か内外にあるけれど、そんなことはなかった。

しかし、何に対してどのように行動するかということをしっかりと考えなければならないであろう。きっと私を含め、多くの人が火炎瓶投げたり、バリケード築いて立てこもったりするような暴力的な行動には賛成しないだろう。

私はスマートで頭脳的でユーモアのある、そしてまた一方、地道に、真面目にどんくさくやっていくしかないのかな・・・と思っている。

 

 


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