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金日成主席の隠された経歴2 [本]

 

 前記事「金日成主席の隠された経歴」からの続きです。

当時の周辺地図は下のページの中ほどにあります。

 http://www5.ocn.ne.jp/~iranka/kinnissei.html

 

1930年、18歳のころの金聖柱が金一星という名をこのんで用い、そしてそんな彼を有名にした二つの事件とはなにか・・

一つは「吉黒農民同盟事件」である。
極左の旋風が吹き荒れたこの時期、「反動分子の摘発とその処断」というのが流行していた。左傾化した多くの青年たちは盲目的に暴れまわっていたが、金聖柱のように性質が荒っぽく、なんでも先頭に立ちたがる青年にはなおさらであった。
彼は真っ先に立って反動分子の処断に蛮勇をふるった。彼は五家子から2キロくらい離れた場所に住む鄭氏という韓人を査問するからと言って五家子に連行する途中、有無を言わさず絞殺してしまった。また、五家子で別の中国人二人を反動だといって直接殴り殺した。その他にも多くの人命を奪った。この一連の事件を
「吉黒農民同盟事件」といった。

(この事件のあった1930年は、「5・30間島暴動事件」「8・1敦化暴動事件」さらに延吉県銅仏寺では「殺父会事件」という、世界の共産主義運動史上でも全く類例のない事件まで発生した。
 銅仏寺という所に韓人農民が多く住んでいたが、ここでも共産主義運動が盛んであった。「青年たちが共産革命を口実に暴れ歩くのは危ない」と父親たちが自嘲するように言ったところ、それを反動だと決めつけて、「殺父会」という途方もない組織をつくりあげ、一夜のうちに270人の父親を相互に殺害してしまった。)

「吉黒農民同盟事件」の主犯の一人である金聖柱はいち早く逃れ、逮捕されなかった。
1930年末、李鐘洛の部下たちは軍資金調達のため、ある金持ちの家を略奪しようとしていたが計画が事前にばれ、ほぼ全員が逮捕された。
それにより、部隊は再起不能になったが、五家子を逃れていた金聖柱は、李鐘洛が逮捕されたことを知ると急ぎ、五家子にとって返し、税金を徴収し、再び矢のように五家子を離れた。

そしてもう一つの事件は小隊長一行惨殺事件である。

五家子を離れた金聖柱は中学時代からの親友、張亜青と共にハルピンに行き、ソ連留学を試みたが中国共産党から認められるような経歴がなかったため、許可は出なかった。
やむなく撫松に行くことにした二人は、途中五家子から2.4キロあまり離れ公主嶺に入り、匪賊の頭目、曺全勝から拳銃を買った。曺全勝は日本人、木寺から武器を購入するルートを持っており、「関東軍」の手先として匪賊たちに武器を売る中間業者であった。「関東軍」は武器の販売を通じて匪賊たちを操縦し、必要な時に彼らをよく利用した。

1931年の初夏、撫松に姿を現した金聖柱と張亜青は、ピストルで武装し徒党を組み、同年輩の者を集めて「革命のための武装」を口実に武器の略奪を始めた。当時、中国人の家庭では殆ど警護用の銃を持っていたので、それを強奪して仲間に分け与えた。
当時、金持ちは殆ど中国人であったから、中国人の口から朝鮮奴の金一星一刀の略奪で、これ以上は耐えられない」という非難の声がわきあがった。

 撫松には朝鮮革命軍の中隊長を歴任した張致旭という人が住んでいた。彼はその雰囲気を見て、「金聖柱一党の不埒な行動を韓人の手で対峙しない限り、中国人らの韓人排斥運動が起こって撫松一帯の韓人の立場が困難なものになる」と考えた。
そこで、1932年2月、彼は興京県旺清門にある朝鮮革命軍の本部を訪れ、その事情を報告した。

金聖柱一党を退治するように命令を受けた小隊長・高東雷はピストルで武装した9人の隊員を連れて出発、雪で険しく厳しい(10・4キロ)の道程で、疲労困憊した隊は当日の夜は枕の下にピストルをしまい、深い眠りに落ちた。金聖柱一党は深い眠りに落ちた隊を奇襲、またたく間に10人を皆殺しにし、ピストルを奪って逃亡した。
革命軍は衝撃を受け、討伐の気勢をあげたが、日本軍がいつ国民政府の管轄地域に進撃してくるかわからないという状況であったから、どうすることもできなかった。

1932年3月1日、日本は満州国を樹立、支配権の確立に拍車を加えた。
このように北朝鮮の金日成主席・金聖柱の生い立ちには、常に大日本帝国の大陸侵略という背景画の上に描かれている。

この年の夏の初め、意外にも金聖柱が朝鮮革命本部を訪れる。同年輩の同僚数人と同行し、金一星と名乗っていた。彼らは高東雷一行を惨殺してから撫松を離れ、各地を巡って見たが、自分たちの足場を見つけることはできなかった。
周りでは反満抗日の中国人義兵が決起する中で、若い者たち、とくに所属不明の韓人青年が武器を持って歩いていると、「日本軍の手先だ」と誤解される恐れがあったために、朝鮮革命本部を訪れたとき彼らは武器は捨てていた。

金聖柱は、「高東雷一行を殺した罪を許してくれるなら、死んだ人達のの代わりにその仕事をやるから、革命軍に服務させてくれるように」と願い出た。並大抵の神経でできることではない。いかに取り扱うか議論が行われたが、総司令は許すという決断を下し、まず、雑役をさせた。しかし、いくばくもしないうちに金聖柱は「中隊長か小隊長に任命してくれるように」と申し出た。司令は要求を退け、「まず与えられた仕事からやるように」と諭したが、自分が信用されていないことを、これから信用を得るには容易でないことを直感し、何の予告もなく去った。その間一月もたっていない。

その頃、聖柱の母はこの世を去る。

満州事変(1931年9月)の前後、多くの色々な抗日部隊が各地に散在していた。1934年2月現在で115の抗日部隊があり、その規模は2、30人から100、200人の者もあった。これらの部隊の構成は、前東北政権の軍人達が主軸の場合と、その軍人達に農民たちが加わった場合と、昔から満州の名物であった匪賊が変身した場合など様々だった。

(勉強不足で申し訳ないですが、東北政権とはおそらく、朝鮮が日本帝国によって併合されたときに満州に亡命して、国を再興しようとした韓人の政権だと思います。)

このような抗日戦線に共産主義者たちが参加するのは、1933年、南満で「東北人民軍革命第一軍第一師」が発足してからである。韓人と中国人の混成部隊であった。

1933年、34年は全東北政権系の抗日部隊が力尽き、東北人民革命軍が台頭し始めた。そのなか、金聖柱が参加したとされる呉義成部隊は長い間保たれた。しかし、1937年、ソ連国境の東寧県に位置していたが、10月にとうとう部下80人を引き連れてソ連に退却した。
この呉義成部隊に所属していただろう時期の資料はあまり十分ではない。
1936年、呉義成部隊が東北抗日軍と合同作戦を展開したときに彼の実弟、金英柱が満州国警察に逮捕され、東北抗日連軍、第二軍第六師 金日成部隊に金一星(金聖柱)がいるのが確認されている。


金聖柱が東北抗日連軍で中間幹部ぐらいであったとすれば、当然ソ連に往来した可能性も十分あった。ソ連はウスリー江を挟んで、東北抗日軍を積極的に支援していた。
1東北抗日連軍に対するソ連内の韓中系軍官の派遣
2戦況不利な時の東北抗日連隊員のソ連内逃避
3ソ連での東北抗日連軍隊員の訓練
4東北抗日連軍傷病者のソ連内収容治療
5隊員の家族のソ連内収容
6武器・弾薬・物資・資金の支援
7特別かく乱工作の支援
8情報操作の援助
9ソ連人軍事指導員の派遣

従って、金聖柱も1,2度ソ連に出入りした可能性があるように思われるが、裏付ける記録は発見されていない。しかし、東北抗日軍が崩壊してバラバラにソ連に逃避したときは彼も入ソするほかなかった。1940年末から1941年初めのことである。
彼らのうち、選抜されたものは、ハバロフスク近くのソ連極東軍区偵察局第88特別旅団に収容されて、無電技術、落下傘訓練等特務工作員として訓練を受けた。日本と戦争が始まった場合の後方撹乱要員としての教育であった。金聖柱も1945年8月15日解放後に平壌に現れた時にこの教育を受けたことを自慢話として話した。(彼の工作員としての記録は見つかっていない。)

1945年に日本が降伏すると、彼はソ連軍の船で北朝鮮に派遣されてきた。彼が学んだ特務工作技術は日本を敗北させるためではなく、北朝鮮人民を全方位統制体制で縛りつける手段として使われ始めた。

 続く

 


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