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金日成主席の隠された経歴 [本]

 

金日成主席の隠された経歴―20世紀最後の独裁者

  • 作者: 李 命英
  • 出版社/メーカー: 世界日報社
  • 発売日: 1991/09
  • メディア: ハードカバー

 

偶然、図書館で見つけた本である。
この本について書いた記事はないかとネット上探すが見つからない。
内容についても同様である。
そこで、この本の内容について書くことにする。

さて、この本に金日成(金聖柱)の本性がきっちり書かれている。
しかし、古い本であるにも関わらず、この知識が今の日本で共有されているかというと、とてもそうは思えない。(実際私も怪しげであるとは思っていたが、よく知らなかった。)
というわけで、広報効果としては微々たるものであるかもしれないが、書いてみる。
もちろん、全部を詳細に書くことはできないので、興味を持った方は図書館か、中古で見つけて読んでほしい。


北朝鮮の金日成主席の本名は金聖柱(キムソンジュ)
1912年平安南道大同郡古平面南里(萬景台)で生まれた。
彼の父、金亭稷(キムヒョンジク)は中学校まで通うことができ、教職に就いた。
1918年、国境地帯である平安北道中江鎭に移り住み、そこで「3・1運動」を迎え、「万歳示威」を指揮した。
3・1運動 
WIKIへ 
 http://haniwa82.hp.infoseek.co.jp/k-textbook/3-1jiken.html

1919年、5月 鴨緑江を渡り、満州の地、臨江県帽児山に移った。
漢方医として生計を立て始めた。
5・1運動の熱気も治まり、人々は生業にいそしむようになった。
父、亭稷は長白県八道溝に引っ越し、漢方医としての基盤を築き上げ、富を作り始めた。
そして、平安南道大同郡龍山面下里(チルゴル)の妻の里に預けた息子、聖柱を連れ出し、「八道溝小学校」に入学させた。
1923年の春、聖柱を再び妻の里に送り、その村の「彰徳小学校」の3年に編入させた。
1925年、5年に進級した聖柱を再び満州に呼び戻した。
父、金亭稷は長白県全体を通じて、移住した韓人の中で二人しかいない有力者の一人として、指折りの財産家になった。
その頃、長白県から西にやや遠く離れた撫松県撫松に移住。

撫松に民族主義独立団体である正義府系統の「白山武士団」という組織があった。団長は、1909年の抗日義兵闘争の義兵将、金虎。
金虎は「白山学校」という武官学校を建てて青年たちを教育していた。
聖柱の父、金亭稷は白山武士団に加入していた。

1926年、撫松から西(9キロほど)にある「華成義塾」に
金聖柱は入学、しかし、入学して間もなく父の急逝により中退。

父、金亭稷の死は共産党のテロによるものである。
満州の韓人社会に共産主義運動が広がったのは、1921年、李東輝が上海で「高麗共産党」を発足してからである。
満州における韓人共産主義運動は、初めから極左的で、強奪、殺傷、拉致などは日常茶飯事で会った。
東満地方において、馬賊によると被害と共産主義者による被害は大差がなかった。
満州における韓人共産主義運動と、愛国的民族主義との関係は最初から敵同士の関係であった。そのために両者の間には血みどろの戦いが幾度となく展開された。
金聖柱の父、金亭稷は共産主義を非常に嫌っていた。彼は共産主義者には薬を施すことも拒んだ。そのため、怨みを抱いた共産主義者達がついに彼を殺害するに至った。

少年金聖柱は家に戻らざるを得なかった。未亡人の母、34歳、10歳と4歳の弟が彼を待っていた。長男金聖柱は14歳であった。

彼は、世の中の動きについていきたいばかりに撫松一帯を横行していた”馬骨”という共産主義暴力団に加わるようになった。
”馬骨”という自称共産主義革命家は、当時の韓人社会の作法通りに、群れをなしては方々をめぐり、中国人、韓人を問わず、金持ちの家をかすめたり、また指示どおりに従わない人を「反動分子だ」として、危害を加えていた。
この馬骨徒党の狼藉が正義府(独立運動期間であり、韓人自治機関)に報告され、討伐部隊が到着すると、他の徒党は逃げてしまい、金聖柱だけが捕まった。
討伐部隊の隊長、李鐘洛は金聖柱が金亭稷の息子であり、怜悧な少年であることを見て、奉天にある中国人の「平旦中学校」に入れてやった。

「平旦中学校」に入学したあとも、馬骨徒党に加わって気性の荒くなった彼は位学期の途中で退学となる。
家族で安図に引っ越し、家族を世話してくれつ人が現れ、金聖柱は吉林の中国人学校「毓文中学校」に通えるようになった。(1927~1928)

1920年代は韓人社会に共産主義運動は広がり、民族主義運動との間における組織基盤の争奪戦が激しくなっていった。
1929年、17歳になった金聖柱にもその手が伸び、共産主義の集いに参加することになっていたが、これらの動きを把握した日帝の吉林総領事警察のために参加メンバーの大部分が検挙される。
金聖柱はうまく吉林を抜け出すことに成功した。

金聖柱は、以前彼を救ってくれた李鐘洛を訪ねて、その部隊に参加する。
1929年、正義府を主軸として国民府が誕生した。
正義府の武装力はそのまま国民府に移管し、李鐘洛は2,30人の部隊長であった。しかし、李鐘洛は、民族主義路線を捨て、共産主義路線に傾いていた。
国民府が誕生する前後、民族主義から共産主義に転向するものは少なくなかった。これらの人々は国民府そのものを共産主義革命団体に転換させようとして、国民府内で革新派を形成した。

李鐘洛は、長春にある日本領事館の機密を探知する工作を展開する一方、共産主義スローガンを掲げた『吉黒農民同盟」なるものを組織して、近隣の農村に浸透し始めていた。
李鐘洛は当時30歳ぐらい、言葉が巧みでしっかりとした人であったが、自分の主張に従わない者に対しては無慈悲であった。『農民同盟』に素直に加入しないものに対しては「反動分子」または「日帝の手先」として、場合によっては厳罰を持って処断した。
金聖柱もこの頃、初めてピストルを身につけ、組織を拡張して歩いた。

五家子一帯の韓人たちの自治組織が武力を背景とする李鐘洛の『吉黒農民同盟』に変わっていき、民族主義独立運動の基盤が、共産主義革命運動の基盤に置き換えられていった。
李鐘洛は学校の教員に共産主義教育の実施を強要、民族主義理論家として名高い高而虚を金聖柱を使い脅迫した。
高は身辺の危険を感じ、五家子にとどまることができなった。

李鐘洛の隊から金聖柱他五名が、「南満州学院」に入学した。
この南満学院は独立運動の基幹要員を養成する特殊な学校であったが、大部分の講師が共産主義思想に変わっていたので、大きく変容していた。
そこに金聖柱らが加わり、反国民府の根拠地同然であった。
彼らの主張は「祖国の独立」ではなく「共産主義革命」であった。

1930年、南満学院粛清があり、逮捕されたもの、殺傷されたものもいたが、金聖柱は素早く逃げ、李鐘洛のところに戻った。
李鐘洛は、国民府の軍隊が朝鮮革命軍に自動的に移行されたから、朝鮮革命軍の小隊長であった。
しかし、彼は朝鮮革命党や朝鮮革命軍の指示に構うことなく、自派勢力の拡大に没頭し、反国民政府的でますます共産主義に傾いていった。

李鐘洛は時勢にのって「中国共産党」の暴動路線へ支持を掲げ、中共党への参加を試みたが、党歴もなく、時勢に便乗する者と見られ、果たせなかった。
そこで、「吉黒農民同盟」を強化して近隣農民に支配力を振うしかなかった。


1930年ごろ、金聖柱は相変わらず李鐘洛の部下として「吉黒農民同盟」の仕事をしていた。
この頃、名前を「金一星」とする。
このことが、在満韓人共産主義運動線上に3人の「金一星」を誕生させた。


一人の金一星は(本名 金奉煥)は、北満で1930年一月、独立運動の巨星、金左鎮将軍を殺害して、その時に彼自身も殴り殺された。
もう一人は、東満、龍井の大成中学校の学生で、5・30間島暴動のとき、行動隊長として逮捕されたが、脱獄、ソ連に行き士官学校を卒業して「東北抗日連軍」で活躍、1930年代末に同軍第一路軍第2方面軍長の金日成としてとったものである。
あと一人の金一星は、1930年11月ごろから五家子で、金一星として別名を使い始めた金聖柱のこと。

金聖柱が金一星(イルソン)という名を用いるようになったため、後日、東北抗日連軍に加わるようになってから、その名の発音が同じ同軍の「第一路第二軍第六師長・金日成(キムイルソン)と、その後継者の「第一路軍第二方面軍長 金日成」と混同されるようになった。

 この二人の金日成は、東北抗日連軍の幹部として有名になるまでは、韓人社会にその名が知れ渡る機会はあまりなかった。
しかし、金聖柱は、東北抗日連軍に加わる前、二つの驚くべき事件により韓人社会にその名前を知られるようになっていた。

続く


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