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愛の反対は憎しみではなく、無関心  [ニュース]

 

日米市民、米紙に全面広告 県内移設に反対

【米ワシントン25日=与那嶺路代本紙特派員】

「自分の裏庭に30もの軍事基地がほしいですか」。

28日付の米ワシントン・ポスト紙に、普天間飛行場の撤去を訴える全面広告が掲載された。

同飛行場のフェンスから子どもがヘリを眺める写真を掲載し「沖縄に基地はいらないことを、オバマ政権に伝えよう」と呼び掛けている。

広告を出したのは連帯組織「ネットワークフォア沖縄(NO)」(ジョン・フェファー代表)。広告には日米の一般市民からの寄付約650万円が充てられた。
 広告は新基地建設に抗議する多くの人々が県民大会に参加したことや仲井真弘多知事をはじめ市町村長らが反対していることを紹介。新基地が「人々の健康や安全に被害をもたらし、ジュゴンなど希少動物の生態を脅かす」と指摘し、米政府に「ワシントンは東京に対し人々の声を無視するよう圧力を加えている。軍事基地に戦略的価値はない」と基地撤去を求める県民の声に耳を傾けるよう訴えている。

 NOは、米連邦議会あての署名も募っている。広告の詳細や署名はウェブサイトで確認できるhttp://closethebase.org/

 

WIKIより少しだけ・・・

1609年、(琉球暦万暦37年・和暦慶長14年)、薩摩藩島津氏は3000名の兵を率いて3月4日に薩摩を出発し、3月8日には当時琉球王国の領土だった奄美大島に進軍。3月26日には沖縄本島に上陸し、4月1日には首里城にまで進軍した。島津軍に対して、琉球軍は島津軍より多い4000名の兵士を集めて対抗したが敗れた。4月5日には尚寧王が和睦を申し入れて首里城は開城した。

これ以降、琉球王国は薩摩藩の付庸国となり、薩摩藩への貢納を義務付けられ、江戸上りで江戸幕府に使節を派遣した。その後、明を滅ぼしたにも朝貢を続け、薩摩藩と清への両属という体制をとりながらも、琉球王国は独立国家の体裁を保ち、独自の文化を維持した。また、琉球王国が支配していた奄美群島は、薩摩藩直轄地となり分離されたが、表面上は琉球王国の領土とされ、中国や朝鮮からの難破船などに対応するため、引き続き王府の役人が派遣されていた

(明治4年)、明治政府廃藩置県によって琉球王国の領土を鹿児島県の管轄としたが、1872年(明治5年)には琉球藩を設置し、琉球国王尚泰を琉球藩王に封じた。1879年(明治12年)の琉球処分により沖縄県が設置され[3]、沖縄県令として鍋島直彬が赴任するに至り、王統の支配は終わった。琉球の王族は、日本の華族とされた。

 

本土のほとんどの人間が沖縄の苦境に知らん顔してきた。それならば、意識しようとしまいと、日本帝国主義者の一員さ。

日本の学校のなかでこんなにいじめが蔓延するのは、大人の世界を鏡の如く反映している。ただ、それだけのこと。

 

 


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