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ごみの有料収集・一言言わずにはいられない。 [日記・エッセイ・コラム]

北の中心都市・札幌でも家庭ごみの有料化が始まる。燃やせるゴミと燃やせないゴミについては有料・資源ごみ(ビン・缶・ペットボトル・プラ・雑紙など)は無料である。普通の家庭の主婦として新しいルールに従ってきちんと出したいと思っているし、今年はマンションの役員も引き受けているので全体へのルールの周知もやることになるだろう。はい、それらは市民の一人としてきちんとやる。ゴミを有料化した方が皆、日々の生活に気をつけ、マナーも向上するだろう・・・・

しかし、しかし、どうしても考えてしまう、思ってしまう。ここまでゴミが増えた主な原因はいったい何なのか?

60年代の中ごろ、旭川に住んでいた。(旭川も最近ゴミが有料化された)あの頃私は小学校低学年、母の手作りのセーターやベストを着ていた。小さくなると弟が着た。それから、セーターはベストにベストはさらにマフラーになった。買物は近くの商店に母は買い物かごを下げて行っていた。牛乳とヨーグルト、乳飲料(ヤクルト)は瓶に詰められたものを牛乳屋さんが毎朝配達してくれた。寒い冬の朝、少し、凍りかかったそれらを暖かい部屋で飲むのは幸福感に満ちていた。全てが今よりも質素だった。でもその頃の私の思い出はフルカラーで鮮明に残っている。

小学校2年の途中で神奈川県のいわゆる東京のベッドタウンに引っ越した。そこでもしばらくは近所の商店で買い物ができた。お豆腐屋さんも自転車でやってきた。しかし、その後、ものすごい勢いでスーパーなどができた。便利な生活になった。うちの両親は何でもすぐに買い与えてくれたわけではないが、周囲にものは溢れていた。競争のように勉強しろと言われた。車を持っている人も増えた。経済は成長し、いろいろなことを知るべく勉強したが、私の思い出には色がなくなった。

ゴミと全然関係ないじゃないか と思われるかもしれないけれど私が言いたいのはこの現在の社会を私達は本当に望んでいたのだろうか?ということである。

輸送費をかけて冷凍保存をして遠くから運ばれてきたものを食べる必要があったのだろうか?きちんと選別されて形が崩れないようにきれいにパックされたものを食べる必要があるのだろうか?30種類を食べなければ栄養のバランスがとれないのだろうか?生活するのに楽しむのに学ぶのにそんなにものが必要なのだろうか?

もしかしたら、本当は必要のないものまで買わされて、それらを使用した後のゴミを出すことにまでお金を払うことになってしまったのではないか?

そうだとしたら、いったい誰がこうしたのか?誰が得したのか?

それはきっと日本の食料自給率をここまで下げてしまった人達と同じである。伝統的な地域共同体や家族といった集団や地域経済を破壊した者たち、地域文化や特色を軽んじ、破壊した者達と同じである。

 ゴミを減らす=消費しないこと だと思うが誰もそうはっきり言わないのは何故か?

経済が回復するように消費しろというなら、ゴミを作り続ける巨大企業に環境税を払ってもらわねばならない。ただし、その税金を払うため派遣を切ったり、弱い立場の人の給料を減らしたり、過酷な労働を強いるのはもってのほかである。

 


タグ:ゴミ
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