大日本帝国の本音は?山西省残留 読書メモ続き [戦争]
前記事の 続きです。
第1軍司令官の澄田らい四朗 らいの字をこのブログ(?)が受け付けてくれないようです。
こちらで見てください。
もう一人外せないのが河本大作
満州某重大事件(張作霖暗殺)の首謀者として知られる河本大作は、行政処分を受けて予備役に退いたあと、後半生を経済人として生きた。関東軍の後盾で満鉄理事、次いで満州炭坑の理事長と、満州財界の実力者にのし上がったが、鮎川財閥に満州を追われた。その後に彼が再起の地として選んだのが山西だった。省内の主要産業を一手に掌握していた山西産業株式会社社長に就任、山奥の地方とはいえ、政財界のトップとして、またフィクサーとして、軍司令官をも凌ぐ栄華を得た。そして再起の地である山西は同時に彼にとって終焉の地となった。
全文はこちら
http://shanxi.nekoyamada.com/archives/000135.html
かくして巧妙な残留説得、強制的命令のもと、2600名の残留部隊が編成され、共産党の3年8か月の死闘の最前線に立たされることになる。1600名は帰還、戦死者550名、他は捕虜となり抑留された。彼等は帰国後、知らぬ間に軍隊を除籍されていたことを知る。軍人恩給を支給されないばかりか、長年の捕虜生活のため、共産党のスパイと疑われ、公安の監視下に置かれる。そのため家族と共に暮らせなくなったものもいる。12人の元残留兵と遺族が軍人恩給支給を求めて国を相手に裁判を起こすが敗訴。
以下は本書のあとがきより
ノンフクション作家の保阪正康は「文芸春秋」2006年6月号で「新・昭和7つの謎④初公開・大本営参謀の告白文書」と題する記事を掲載した。もと大本営作戦参謀の朝枝繁春が、ソ連軍が「満州」に侵攻した昭和20年8月9日、驚くべき作戦指令を関東軍、北方軍、朝鮮軍、そして第1軍を管轄する支那派遣総軍に示達したことを、遺された『回想』なる私家版の手記から明らかにしたものだった。その中に次のような命令が含まれていた節があるとう¥いう。
(戦後従来の、帝国の復興再建を考慮して、関東軍総司令官は、なるべく多くの日本人を、大陸の一角に残置することを図るべし。之が為、残置する軍、民日本人の国籍は、如何様に変更するも可なり〉
つまり、日本軍将校を中国大陸のどこかに温存せよというのである。朝枝はこの命令を、大陸命(大本営陸軍部が天皇の名において発する命令)や大陸指(大陸命を実行するための指示)と指示として起案し、参謀総長の許可を取り付け発令したのではないか。
こうした命令が関東軍総司令官だけでなく、支那派遣総司令部にも打電されていたとの指摘は極めて重要である。大本営の意向が支那派遣総軍を経由して、第1軍にも伝えられていた可能性があるからだ。
本書で私は、第2軍将兵の残留が単に澄田軍司令官や山岡参謀長の無責任な行為のなせる業にとどまらず、大本営や日本政府、さらには連合国軍総司令部(GHQ)の一部の了解のもとに進められたのではないか、と述べて。保阪の記事も合わせて考えれば、その可能性は極めて高いと言えよう。
これは全く過去の話で、もうそのようなことこと(大陸での暗躍、謀略)はないのだろうか?
澄田は自伝によれば昭和28年に復活した軍人恩給の受給資格を得、終戦直後、昭和20年9月に勲一等旭日大綬章を下賜されている。
閻錫山は台湾に逃れ、まで中華民国行政院長兼国防部長を勤めた。辞任後は総統府資政、国民党中央評議員に就任して、反共著述に専念した。